スクランプ連盟

趣味の旅行、映画、パートナーと二人三脚のうつ病ライフについてゆるーく書いてます。

えいが。

李相日監督の“許されざる者”見て来ました。原作はもちろんクリント・イーストウッドさんが監督・主演をこなした名作です。2つの作品はセリフも話の流れもとてもよく似ています。まず“許されざる者”というキーワードについて思ったところを書いてみようと思います。
許されざる者がいれば、許される者もいるのでしょう。その境界線が何かと言えば、命を奪う行為だと思います。ハリウッド版の主人公はかつてひとの命を奪う事を何とも思わぬならず者でした。日本版の主人公は自分が生き延びるためならためらう事なくひとを殺せるひとでした。彼らは実は物語が始まる前から許されざる者と呼ばれるに値する人物だったと思います。ただ、2人は人生を生き直すチャンスを得ました。妻の愛情が彼らの心に平安をもたらし、自らの過ちを背負いながら生きていく勇気をくれました。これは神仏の救いにも等しい奇跡だったに違いありません。
でも妻亡きあと彼らは貧しさから再び道に迷ってしまいます。彼らは2人とも自分はすでに“真人間”だと思っているのでもうひとは殺せないけれど仲間がどうにかするだろう、とごく甘い認識を持って事件に関わっていきます。ところがいざ始まってみると仲間のひとりはとどめを刺せないと言って逃げ出し、もうひとりは初めてひとを殺めてしまったと白状して泣きじゃくります。主人公は戸惑います。そこに逃げた方の仲間が無惨に殺されて死体を辱められているという知らせが届きます。
主人公には解ってしまったのだと思います。過去の自分にあった狂気は消えたわけではなかったと。自分はやはりひと殺しのひとでなしで許される事などないのだと。後悔に泣いた仲間の魂はまだ間に合うかもしれません。でも自分はもう戻れない。
ハリウッド版と日本版の最大の違いは話の筋に滅び行くものの切なさを絡めてきた事だと思います。アイヌしかり、サムライもまたしかり。李監督はハリウッド版を内面まで非常に深く理解して、決してまね事に留まらぬ自分の世界を作っていると思いました。加えて、渡辺謙さんの名演。このひとでなければこの役は誰にも演じ切れぬと思いました。サムライの魂の最後の残光を見た気がします。

*忘れてましたが金曜の更新は所用のためお休みします。すみません。