スクランプ連盟

趣味の旅行、映画、パートナーと二人三脚のうつ病ライフについてゆるーく書いてます。

やくそく。

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祖母のお墓参りに行ってきました。彼女は大正13年関東大震災の年に産まれました。戦争の中で青春時代を過ごし、太平洋戦争の後に10歳も年の離れた祖父と縁がありました。7人の子をもうけ、その内4人を戦後の混乱期の中赤痢(当時は疫痢と呼ばれていたそうです)亡くしました。貧しい中一所懸命働いて家計を支え、ようやく子供達が独立した頃に祖父を失い、長男夫婦の離婚騒ぎに巻き込まれて孫2人を半ば強引に押し付けられる事になりました。後に長男が別棟に女性を連れ込んで再婚し、孫が産まれたのはいいものの、後妻は仕事を理由に育児を放棄した為祖母の手には3人の幼い子供が残されました。ところが長男夫妻は別棟の光熱費を一切支払わなかったばかりか、洗濯や料理などの基本的な家事まで親頼みにした為、年金生活者だった祖母は私が13歳の時についに生活に疲れて行方をくらましました。別棟から我が物顔で引っ越して来た長男夫妻は前妻の残した2人の子供を自分達の子とは違う扱いをしました。虐待のスタートです。
前妻の子供2人の境遇を知ったある親戚が子供達に祖母の居場所を教えました。祖母は何度も孫達に会うのを拒否しましたが、詳しい事情を知って陰から孫達を守る事にしました。温かい食事を与え、時にいくらかのお金を握らせて、これで栄養のあるものを買いなさい、と。2人の孫にとって祖母の存在は僅かな救いでした。
彼女が亡くなったのは私がその地を離れて3年後、70歳の時でした。大正、昭和、平成を苦労の中だけを駆け抜けたひとでした。
私は彼女とひとつ約束をしました。季節が変わったらアルバイトして温泉にでも連れて行ってあげる。軽い気持ちで言った言葉でした。祖母はその言葉を深く信じていて、親友にあの子は自分の事など忘れてしまったのだろうか、寂しい、寂しい、と訴えていたそうです。むごい事をしました。どんなに悔やんでも取り戻せない事もある、と初めて思い知らされた時でした。
もうすぐ祖母の命日が来ます。